
今週のひら活 写真



園路のレンガが、段々、島を巡る船のように見えてきた。



花の愛で方論争
リシマキア・ミッドナイトサン、サルビア・ネモローサ、二ーベルンギア・オーガスタの花が咲き始めている。
それは素晴らしいことであるのだが、私の脳内に潜む自然派(?)人間は次のように私を非難した。
「庭でわざわざ花を育てる必要はない。なぜなら、その辺に生えている花だけでも十分美しく、見る価値があるからだ。それにもかかわらず花壇を作ろうとするのは、自分の感性の無さを誤魔化しているに過ぎない。真に花を愛でる、あるいは愛でる心を養おうとするのであれば、その辺に生えているタンポポを、立ち止まって見るべきなのだ」と。
このように言うので、私は次のように回答した。
「まず、園芸品種は野生の品種によってはカバーしきれない豊かさを持つ。従って、野生の花が美しいからといって、直ちに園芸品種を育てる必要性が失われるわけではない。次に、貴公に尋ねたいのだが、貴公はその野生の花を育てているのか?」
「いいや、育てていない」
「では、花の付いていない時のタンポポをよく観察しているのか?」
「多分、ない」
「とすると、貴公の花に対する姿勢は、真に花を愛でているとは言い難い。なぜなら貴公は花が出来て始めて花を愛でるという、受動的な関わり合いしか行っていないからである。
確認すべきこととして、貴公は、花が植物の成長過程の中に生ずる一形態である事を認めるか?」
「それが生物学的に正確な規定であるとは思わないが、認めよう。」
「ありがとう。確かに私の中にも、植物の過程の中では花が最も価値あるものだ、という気持ちはある。しかし、“真に花を愛でる”というならば、我々は花が生み出されるまでの全てのプロセスを見届け、尚且つ、やはり育てるべきである。なぜなら、花が咲いていない頃からその植物に眼差しを向けたり、とりわけ育てたりする事の方が、より能動的であるからだ。花が咲いて初めてその花に眼差しを向けることは、植物から花という美しさを受け取るという意味で、受動的な営みの枠を超え出ないだろう。だが、“愛する”ことの一要素に、少なくとも“能動的である”ことが含まれているのは、我々の共通認識のはずである。
だから、真に花を愛でる姿勢を養うという目的の上で、最も観察しやすく、そして育てやすい環境としての“庭”が肯定されるのである。」
最終更新: 2026/5/18
しかし、自然派の私は反論した。
「貴方が私の鑑賞スタイルを能動的でないと評価したことは、私の本意ではない。私は最初に“タンポポを、立ち止まって見るべきだ”と言ったはずだろう。立ち止まるというのは、自らの意志でそうしているのだから能動的な行為の何ものでもない。私は、花を前にして、立ち止まり、そして見守っているのである。だから、私の鑑賞スタイルの中にも能動的な側面は確かに存在する。
また、貴方の主張の論理展開にも異議がある。確かに、“愛する”ということの一要素に、少なくとも“能動的である”ことは含まれている。このことは私も認めよう。しかし私も能動的な鑑賞スタイルで、貴方も能動的な鑑賞スタイルを取っていることが確認できている今、上記の主張ではお互いの鑑賞スタイルに優劣をつけることなどできないはずである また同時に(これは私の推察に過ぎないけれども)、貴方は暗黙の裡に、能動的であるほど良い愛し方である、というような類のことを了解しているのではないか? なぜなら、花を愛でるだけであるよりも、花が出来る過程全てを愛でる方が、より能動的であると貴方は考えているからである。
しかし私は、そういうことを認めない。もしそんなことを認めようものなら、メンヘラのような行き過ぎた能動性こそが、最も良い愛であるということになるからだ。しかし私や、そして貴方も、そんなことは認められないのではないのか? まぁ、貴方がどうであれ、少なくとも私は、行き過ぎた能動的愛を良いなどとは考えない。だから貴方は、“立ち止まって花を見る”ことよりも、“庭で花を育てる”ことのほうが、どうしてより良い愛し方であるのかを説明しなければならない。」
最終更新:2026/6/1
